国債・金融史①国債の定義と起源――イギリス名誉革命、ナポレオン戦争

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国債とはなにか

・国債とは国が発行する債券のこと。国が資金を調達するための手段である。とくに戦争では突発的に支出が増えるが、実物資産(人間・物資など)を意のままに制御するためのまとまった貨幣が不足しているとき、貨幣の代りに国債が発行される。「戦争が終り平時に戻れば必ず貨幣を返済する」という契約書が、債券であるともいえる。

・債券と貨幣
債券は、貨幣を調達し、貨幣で償還(返済)される。すなわち債券は貨幣と交換される。
このように債券は売買(換金)されるのに対して、貨幣は売買されない。100円貨幣を110円で購入する人はいない。

・債券と紙幣
債券と兌換紙幣は、いずれも金融資産で、ほぼ同じものである。ただし債券が売買される商品であるのに対して、紙幣は商品交換の媒体にすぎない。したがって紙幣を投機商品とみなし、相場を立てたり、利子を付すことは禁止され、額面価格での使用が義務づけられる。不換紙幣化すると、紙幣のこの性質がより明確となる。

・金融資産とは、貨幣との交換(貨幣の支払い)を請求できる権利のこと。要するに債権であり、負債と対をなす。具体的に現金・預金・債券などの形をとる。

・インフレが進むと、物価(実物資産の価値)は上昇し、貨幣・国債の価値(金融資産の価値)は下落する。両者の価値は、逆の関係にある。たとえば10年国債の額面価格が100円の場合、10年後に100円(国債発行時の価格)で償還されるが、インフレ時には、100円の価値(実物資産に対する貨幣価値)は下落している。


国債の起源――イギリス名誉革命

国債は議会とともに誕生した。それ以前、中世の国王は、平時に財宝を貯え、戦後に戦利品の分配を約束することで戦費を調達し、突発的な支出増に対応していた。やがて絶対王政の時代になると、国王は、王冠など威信財だけではなく、領地や徴税権を担保にして私的に借金するようになったが、その元本と利子は必ずしも全額返済されなかった。国王は借りた金を「税金である」と言い張って返さなかったり、王位継承者が先代の借金を踏み倒すこともあった。また、国王が自ら法廷を開いて債権者を裁き(金利で暮らすという罪!)、借金を帳消しにした。このように国王の借金は返済される見込みが低かったため、商人の借金より高金利が求められた。これに対して、議会は恒久的な機関であり、国王より信用性が高かったため、低金利で借金できた。

イギリス名誉革命(1688年)で、国債は誕生した。課税、その使い道(歳出)、国債の発行について、国王は議会の承認を得なければならなくなった。国債を発行する場合、その度に利子相当額の税収を生みだす恒久税を課すことを議会が求めた。課税の恒久化によって確実な利払いが担保され、国債は国内でもっとも安全な資産となった(1692年、酒税の恒久化を担保に年利10%国債を発行して100万ポンドを借り入れ、10%の利息分を酒税で支払うことに)。要するに、安定的な税制によって、国債の発行が可能となったといえる。

逆にいえば、国債の増発には増税が必要であるため、無制限な国債発行に歯止めがかけられた。このように議会の誕生によって、私債(国王の私的な借金)は、国債(国民の借金)となり、その他のあらゆる負債より信用性が高いものとなった。
名誉革命以降に発行されてきた様々な国債は、市中金利の低下に合せて、より低利な国債へと借り換えられ、18C半ばに利息3%のコンソル公債へと整理統合される。
「国債の信用力を担保するために議会政治を確立する」というこの動きは、1800年以降フランスへ、1871年以降に統一ドイツへと波及する。19C、国債の元本は、金に兌換可能な貨幣で償還されたため、その実質的な価値は保証されていた。イギリスは、ナポレオン戦争中など一時的に金本位制から離脱することはあったが、戦後すぐに復帰した。

以上をまとめると、議会・税制・金――議会による公権力の創出、徴税システムの整備、貴金属・土地などの物質――、この三点が国債の信用力を裏づけていたといえる。


「コンソル公債」:
コンソル公債とは、イギリス国債の一種である。償還期限(元本の支払い期日。満期)が設定されておらず、政府は元本を償還しない代りに、永久に利子が支払われる。名誉革命(1688年)以降、利子率や期日の異なる様々な国債が発行されてきたが、これら国債が18C半ばに整理統合されたものである。
19Cを通じてイギリス国債の多くを占め、他国の国債金利の最低基準となる。その背景として、イギリス政府の信頼性(民主主義)と、イギリス国債の流動性の高さ(売買の容易さ、換金の容易さ)があった。
20C初頭、議会政治の普及とともにヨーロッパ各国の国債金利は安定し、コンソルとの金利差は縮小する(1913年、各国の国債金利は、イギリスのコンソル2.8%、フランス国債3.1%、ドイツ国債3.7%)。
第一次・第二次大戦期、コンソル以外の戦時国債が大量に発行されてシェア低下。戦後、イギリス国債発行残高に占める割合は1%となる。


国債のリスク・プレミアム(上乗せ金利)――ナポレオン戦争

国債は、ひとつの国のなかで、もっとも信用性が高く、安全な金融資産(踏み倒されない負債=消えない貯蓄)であるため、低金利である。
また国際金融市場では、覇権国の国債金利を最低基準として、その他の国債金利は信用力に応じて評価される。国債デフォルトのおそれがある(元本と利払いが約束通り行われないおそれがある)、そう評価されると、投資家はリスクの度合いに応じて、金利に上乗せ(リターン)を求めるようになる。
ここでの覇権国とは、国債発行元(政府)に対する信用性が最も高く、国債の流動性が最も高い国のこと。19Cの覇権国はイギリスであり、第一次大戦以降、覇権国はアメリカに移った。

ナポレオン戦争(1803-15年)において、イギリスは、国債の信用性・流動性が高く、国債の大量発行で巨額の戦費を賄うことができた。その際に金本位制から一時的な離脱を余儀なくされたものの、戦後すぐに財政収支を均衡化・黒字化させ、金本位制に復帰した。ちなみに戦時中、イングランド銀行券の金兌換停止は結果的に、資本移動(戦場となった大陸への送金、大陸から本国への資本逃避)を円滑にした。
他方でフランス国債は信用性が低く、戦時国債を大量発行できなかった。18C、絶対王政期(ブルボン朝治下)のフランスでは、議会による予算統制が規則的に行われず、国債についても元本の償還停止・減額、利子の引き下げなど、王権による返済条件の恣意的な変更(デフォルト)が何度も行われた。このため、フランス国債は、イギリス国債よりもハイリスク・高金利であった。フランス革命の混乱期には、インフレにより国債の価値は下落、さらに総裁政府は旧王朝が残した債務の全額引き継ぎを拒否(デフォルト)、こうして信用が低下したフランス国債の金利は1797年に80パーセントに達した。1800年以降、ナポレオンは財政改革に取り組み、国債の利子を正貨で支払うなど信用回復に努めたものの、戦時国債を大量発行できるほど信用回復していなかった。ナポレオン戦争中、永久国債の金利は、イギリスのコンソル公債4.8%に対して、フランス国債は8%であった。この金利差がリスク・プレミアム(上乗せ金利)である。

「アッシニア紙幣」:
アッシニア紙幣とは、1789年~96年、国有化された教会地を担保にして発行された土地債券である。89年当初、フランス国民議会は、教会の土地を接収して分割売却し、その収益を旧王朝の残した債務返済に充てる予定で、アッシニア(土地債券)を発行した。92年、革命に干渉する諸外国との戦争費用調達のために大増刷されるが、土地収用が追いつかず、さらに亡命による正貨の国外流出もあって、アッシニアは不換紙幣化、強制流通させられた。しかし土地・正貨(貴金属)・税収いずれの裏づけもないままに続けられたアッシニアの大増刷は95年のハイパーインフレを引き起こし、翌96年、総裁政府は紙くず同然となったアッシニアの流通をあきらめる。97年、総裁政府は旧王朝が残した債務の全額引き継ぎを拒否し、債務の2/3を切り捨てる(デフォルト)。

§ナポレオンの財政再建:
ブルボン朝は累積債務を処理しきれずに打倒され、総裁政府は政府紙幣(アッシニア)の大量発行で崩壊した。フランス革命期のインフレとデフォルトで、それまで発行されたフランス国債の累積残高は減額されたが、政府の信用力は急落していた。1799年以降、ナポレオン政権期に次の財政再建が行われた:
・財政収支の均衡化(1802-12年)。国債の利子を正貨で支払う。正貨には、国内の増税や、占領地から得た賠償金を充てる。
・戦時国債を発行せず。というか、フランス国債の信用力が低くて発行できなかった。
・不換紙幣を発行せず。ナポレオン戦争中(1803-15年)も金銀複本位制を維持。

参考文献

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